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Overview

この稿では、西洋と東洋。ふたつを「OS」として比べながら、
いま、どちらの声に耳を澄ますべきかを探ってみる。

2025年。

 

世界は静かに、確実に

戦争の時代に入っている。 

 

ロシアとウクライナ。

イスラエルとイラン。
インドとパキスタン。

 

 

次にどこで、新たな火種が燃え上がってもおかしくない。
もう誰も驚かない。麻痺も始まっている。

 

 

共通するのは、

どの国も、自分が「正しい」と言い張る。

 

 

“正しさ”は、立場によるもの。

または、信仰だ。

 

 

国が争うのか?

宗教が争うのか?
国が宗教を利用して争うのか?
宗教が国を利用することもあるか?

 

 

確かに一神教の思想は強い。
科学、政治、経済

世界の仕組みをここまで動かしてきたのは、その明快さだ。
だが同時に、違うものを許せない脆さも持っている。

 

 

私は思う。
この西洋思想的OSは、バグってるんじゃないか、と。

 

 

じゃあ、東洋思想はどうか?

 

 

常に沈黙していて、あいまいで、わかりにくい。

矛盾を抱えつつ、整っているようにみえる。
言葉ではうまく言いづらいが、なんとなくわかる。

 

 

そんな世界の見方が、たしかにある。

いままで東洋思想に傾倒したこともなかった。
合理性や効率を優先して生きてきたつもりだ。

 

 

だが、静かに振り返ると、
自分の中に、東洋的な何かが眠っている。

 

 

この稿では、西洋と東洋。
ふたつを「OS」として比べながら、
いま、どちらの声に耳を澄ますべきかを探ってみる。

|1|自然との関係性|「征服する自然」vs「共に在る自然」

都市は、便利でなければならない。
速くて、無駄がなくて、機能的。

 

 

それが正しい、と信じてきた。

西洋思想のど真ん中の考え方だ。

 

 

自然は、整えるもの。
いや、もっと正確に言えば「管理する対象」だ。

ル・コルビュジエの言葉が、それを象徴している。
「都市は人間のための機械である」
道路は直線、建物は合理的である方がいい。

 

 

光も風も、使えるものとして調整される。

 

 

 

だが、東洋の思想は違う。

 

 

自然は、制圧し管理する相手じゃない。
自分の一部だ。

 

 

風が吹き、雨が落ち、光が差す。
それに逆らわず、身を預ける。 そういう佇まいだ。

 

 

日本の建築には、それがある。
隣家と隔てるのは植木。

 

 

縁側は、家の中であり外でもある。

 

 

外と中の空間が緩やかにつながり曖昧だ。

 

 

古民家は言うに及ばず、

 

 

谷口吉生の東京国立博物館 法隆寺宝物館、

 

 

妹島和世のすみだ北斎美術館。

 

 

谷口は、建築物に多くを語らせず、
妹島は、建築物に周囲の景色を写し込む。

自然と断絶せずに、空間をつくる。
設計というより、むしろ調和だ。
隔てるのではなく、融合させる。

 

 

東京という都市は、上から見れば西洋的だ。

だが、地上を歩くと、縄文時代から変わらぬ、地形の上に
路地があり、神社があり、商業空間に家がある。

 

 

人間の都合で整地されなかった
「何か」が、まだ残ってる。

 

 

自然を他者と見るか、仲間と見るか。
その違いは、数字では測れない。 体でわかるものだ。

 

 

目的もなく街を歩く時、

どちらの感覚が自分にしっくりくるか。

 

 

それだけのことかもしれない。

|2|知のあり方|「言葉で制する知」 vs 「身体で育む知」

説明できなければ、理解したことにならない。

 

 

そんな空気が、世の中を支配して久しい。

 

 

会議でも、授業でも、言葉が強い。
何のために、なぜやるのか。それを言え、と迫られる。

 

 

だが、そんなもので本当に“わかった”ことになるのか。

言葉にすればすべてが伝わると思うなら、
それは間違いだ。

 

 

知る、分かるというのは、もっと厄介なものだ。

 

 

東洋の考え方は、それを知っている。

剣道でも、茶道でも、まず“型”を叩き込まれる。

 

 

頭じゃない。体で覚えるんだ。

ひたすら繰り返して、手が先に動くようになる。

 

 

それが「守」。

やがて破る「破」、そして離れる「離」。
守破離だ。

 

 

理屈じゃない。
身体に沁みて初めて、知識が“知”になる。

 

 

そして、もうひとつ。

禅の「不立文字」。
言葉じゃ伝わらない、という思想だ。

 

 

真理は、沈黙の中にこそある。

語らずに、ただそこに“在る”。

 

 

禅の坊さんたちは、それを体験として叩き込んできた。

 

 

考えるな、坐れ。

言うな、感じろ。

そんな知が、東洋にはある。

 

 

私たちは、学校や仕事で“説明する技術”ばかり磨かされてきた。
だが、心のどこかでは知っている。

 

 

本当に大事なことは、うまく言えないってことを。
語りきれない知恵がある。
それが、東洋のOSだ。

|3|自己と他者の関係|「主張する個」 vs 「滲み合う個」

自分の意見を言え。
最近じゃ、どこでもそう言われる。
会議でも、面接でも、SNSでも。

 

 

「あなたはどう思うか」が、

アイデンティティの証というわけだ。

 

 

西洋の考え方では、

個とは明確で、強くあるべきものとされている。

 

 

ひとりの人格で、筋が通っていて、

他者とはきっぱり線を引ける。

 

 

それが“成人”だと教えられてきた。

 

 

社会は契約でできていて、

意見の違いは論理でさばけるものだと。
だから、言わなければ存在しない、
みたいな空気がある。

 

 

 

だが、東洋の考えは違う。

 

 

人は、関係の中に生きる。
立場が変われば、自分も変わる。

 

 

母である私、部下である私、
友の前では少し違う顔。 どれも“本物”だ。

 

 

「分人」そう呼んだ作家もいたが、
そんな考え方は、ずっと昔から東洋にあった。

 

 

仏教の縁起、儒教の仁、道教の自然。
どれも、“人は関係性のなかで変化する”ってことを前提にしている。

 

 

東洋の人間は、語る前に踏みとどまる。

 

 

空気を読んで、言葉より態度で調整することもある。

意見を押し通すより、間合いを詰めすぎないように動く。

 

 

それは、卑屈でも、逃げでもない。
他者と調和するという、もうひとつの強さだ。

 

 

もし自分を出すことに疲れているなら、

それは、もうひとつのOSが動いている証拠かもしれない。
「自分らしさ」は、ひとつじゃない。
矛盾しても、揺らいでも、それでも“全部、自分”でいい。

 

 

それが、東洋的な自己観というものだ。

|4|価値判断の軸|「言語化された目的」 vs 「佇まいの正しさ」

なぜ、それをやるのか。

世の中は、その説明を求める。

 

 

理由を語れ。数字で示せ。
目標と手段が合っていれば、 そ
れで正しい──そういう論理で動いている。

 

 

ビジネスの世界では、KPIやらROIやらが飛び交う。

“目的のためなら、この手段”と、 フレームワークで割り切っていく。

それが西洋的なOSのやり方だ。 

 

筋は通っている。
だが、妙につまらなさもある。

 

 

 

東洋の感覚は、少し違う。

なぜそれをやるのかと訊かれたら、

「そっちの方が、良さそうだから」と答える。
それで、充分なんだ。

 

 

京都の老舗の商家は、そうやって続いてきた。

包み紙ひとつ、茶の出し方ひとつ。

 

 

何百年も守り抜いた所作には、 理由なんかいらない。

 

 

そこに、謙虚な「正しさ」がある。

 

 

論理では測れない「佇まい」。

目に見える“整い”。

 

 

それを感じ取る力が、 この国の中にはまだ残っている。

 

 

西洋は「語れる価値」に強い。

だが東洋は「語らずとも伝わる存在感」に深みをつくる。

 

 

ロジックで動く職場で戦いながら、

家では空気を読んで身を引く。

 

 

そんな日常の中に、

ふたつのOSを切り替えて生きる知恵がある。

 

 

説明できないが、どうしても捨てられないものがあるなら、

それは、あなたのの中の“静かな判断軸”かもしれない。

 

 

それがあるなら、 まだ大丈夫だ。

|5|死生観と人生観|「抗う死」 vs 「還る死」

死は、いつか来る。
そんなことは誰だって知っている。
だが、それにどう向き合うかとなると、話は別だ。

 

 

西洋の考え方では、人生は一直線だ。

始まりがあって、終わりがある。

 

 

だから、そのあいだに何を残すかがすべてになる。

 

 

死は、抗うもの。 技術で、医療で、なんとか先延ばしにする。

老いは管理され、死は遠ざけられる。

 

 

だが、東洋の思想は違う。

死は、“還る”ことだ。 生まれ、変わり、やがて戻る。

 

 

川の流れのように、生も死もつながっている。

仏教の無常。道教の自然回帰。
すべてが、そう言っている。

 

 

茶道も、禅も、老いを整いとして受け入れる。

そぎ落として、静かに納まっていく。
それを、美徳とする世界観がある。

 

 

「死を考える」ことは、生を深くすること。

 

 

禅僧は「念死」と唱え、

武士は死を覚悟してこそ強くあった。

 

 

死に備えることで、生き方が研ぎ澄まされる。

 

 

祖母が言った。「そろそろ潮時かねぇ」

そのとき、なぜか心が穏やかになった。

 

 

諦めではない。納得だった。
死を受け入れる逞しさが、そこにはあった。

 

 

西洋が死を遠ざけようとするなら、

東洋は、それを見つめて、準備する。

 

 

私たちがいま、生きているその足元にも、

きっとこういう感覚は、静かに息をしている。

柔が剛を包むとき

剣道に「柔よく剛を制す」とある。
 

全力で打ち込んでくる相手の力を、

正面からぶつけ返さず
流れに身を預け、間を読み、
相手の力を“使って”制する。
 

そんなことが、この世界で起こるのか?

 

 

常に敵をつくり、勝ち続けようとすることに未来はない。

刚は暴れ回り、
柔が最後に、全体を制する。